折坂悠太『平成』(2018)
天才…天才だ……!
「奇才」の形容詞が付く若手SSW(そういえば同僚に「シンガーソングライターって『SSW』って書くんだ!プロレス団体みたいだね!」と言われた)、折坂悠太のアルバム。
松田龍平をふやかしたようなあまりにも気の抜けた、しかし明らかに狂気を感じるジャケット。
そこに収録された音もやはり一見小洒落て耳障りの良いシティポップだが、確実にどうかしている。
一曲目の「坂道」からして度肝を抜かれる。
小気味良いミドルテンポのポップソングで、随所に嫌み無くジャズフレイバーをまぶす。
ヴォーカリストとしての力量も凄い物を感じる。
音楽性に合わせて引きの歌唱をしているんだけど、SSWらしい小細工のない、「歌」で勝負をしていた者の説得力を感じる。
この引きの主張は大瀧詠一にも通ずるものを感じる。
捕らえ所のない間奏のギターも素晴らしい。
ジャングルビートから始まる「逢引」、これが素晴らしい。
ヴァースの言葉遊びから、野太いハイトーンのサビ、そして何より圧巻の間奏スキャット。
彼の50'sトラッドなバックボーンを感じる。
続くはタイトル曲の「平成」。
「『平成』疲れてた。それはとても。何処にも行けず。」から始まる、我々平成世代の静かな怒り、悲哀、諦観。
この3分の短い曲に彼の「時代」という大きなモノへの複雑な想いを感じる。
「揺れる」は静かなアコギ弾き語り。
日本の歴史において大きな地震は数あれど、やはり東日本大震災というのは日本人の価値観や安全の概念、細く残っていた政治への信頼を断ち切ってしまった本当に転換点だったんだなと思う。
同じ時代を生きる我々だからこそ、たった2分でその想いが伝わる。
「みーちゃん」、変態だなぁ。これとか「夜学」辺りが「奇才」と呼ばれる所以なんだろうか。どっちかっていうと「変態」だと思うけど…。
「夜学」はラテンビートに近代文学風の語りが入る変態曲。
最後の「平成30年1月1日~」の件の後のシャウトが本当に痺れる。
技術的な唱法としてのシャウトでも、腹から吐き出す叫びでもなく、脳髄から思わず溢れ出てしまったようなどうしようもない鬱憤の声。
最後の「さびしさ」「光」はシンガーソングライター的な弾き語り曲。
歌詞だけ読んでいると、本当に彼の純文学性がよくわかる。
付け焼き刃の知識では絶対に真似できない、骨の芯まで染み着いたもの。
「平成最後の~」なんていう流行りの言葉は使いたくないが、間違いなく時代の変わり目というこの瞬間だからこそ産まれた傑作。
表現者の本来持つバックボーンと否応なしに侵入してくる同時代の感性、時代の境目に表現者と視聴者の複雑な感慨が見事に合致した奇跡の1枚ではなかろうか。